読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

一を聞いて虚数解

枠の外の話

ストリームを見なくなって見た2015年

今週のお題「今年見に行ってよかったもの」

2015年。私はTwitterをしなくなりました。Instagramもしなくなりました。Facebookはもともとほとんどしてなかったけど更にしなくなりました。ということでSNS系を一気に捨て去った一年になりました。別になんか理由が合ったというわけでなく、当時すごくしんどい状況なんで諸々嫌になって気分転換にやめただけなんですが。

もともとそんなにSNS系で付き合いがなかったのが幸いというか言動がそんなに好かれるものでもないのもあり、SNS関係の知り合い?だった人たちからもほとんどコンタクトもなくあっさり過去形の人になることなく、忘れ去られたようです。人は死んだ時にその評価がうんたらって言いますが、それが生前にわかる時代なんだなぁとしみじみ。(その分埋めるのかどうか知らないけどLINEの稼働率はすごく上がった。そういうものなのかはわからん)

去年から今年にかけてのしんどい状況と、しんどい状況にならざるをえない負荷の増大があって「人の幸せを許容できない」感じになってたのもあったのでナイス判断だったなと思います。自分の何やっても幸せを感じられない今の状況と周囲の楽しそうなことばかり飛んで来るSNS関係のストリームを見た時の対比。

別に離れたからってblog書くようになったり、他のクリエイティブなことしたり、他の趣味がってことでもなく、むしろ仕事の内々のことに忙殺されてるだけだった感はある(実際2015年はサッカー観戦が1試合しかしてないし、おかげで来年の年パス買う気が起きない。そのへんは追々)

そんな感じで離れててどうだったの?っていうのを一年近く経つ今振り返ると、年取ったなぁというのに集約されてるかと。

7年も経てば同じ仕事してても忙しさ、内容などは変わってきて、「発信できる時間」は減る。同時に発信できるようなことに触れていられる時間も減る。さらに言えば同じ発言をしても周囲の捉え方は明らかに変わってきます。例えば同じ「○○買った」でも歳が変われば「年甲斐もなく」って思われたり、クラスタリングがはっきりしすぎなくらいはっきりしてる昨今なら捉えられ方も極端になってきます。好意的にもその反対でも。

時事ネタに無自覚に触れて、一度炎上すれば各方面どころじゃすまない延焼範囲になるし、逆だとしたら自分に不釣り合いなくらいの持ち上げられ方をされる。別にそういうことを気にするような発言しないにせよなんか頭の片隅にそれが残ってしまうだけで「発言することの楽しさ」は薄れていきます(知り合いやそのクラスタリング周囲にも配慮しなきゃなーとかも考えちゃいます)

同時にそれは自分にとっても発言の思考基準にも影響しそうな感じで、時間がなくなるほどにストリームの情報を咀嚼できなくなり、「親密なところ」自分でか他人がかはともかく「集約されたところ」に偏って…という感じで「テレビばかり見てると(ry 」みたいなノリがそこに起きてしまいそうだと思ったりもしました。

自分の基準・感情がその風速に流されてしまいそう。SNS自体もともと自分の発言がパーマリンクを得て世界に飛んで行くサービスだけど、SNSが自分の発信だけでなくメディアツールとして発達するっていうことは自分の何気ない一言がものすごいブーストを掛けて飛んで行く感じなので、一言が自分にぶつかった時の風速・インパクトが以前とは違うし、数の力も以前とは比べ物にはなってない。

そんな怖さをユーザー層の極端な広まりと相まって、外から見てると感じたりはします(往々にしてそういう火種になりそうなところほど、怖さの部分には無自覚なんでなお怖い)

当然変わってない人、ところもあって、逆にそれを自分が見た時に「変わってない良さ」を感じる前に「変わってない絶望」を感じてしまったことも、最近は感想としてあったりします。すごくワガママな感想だとはわかってはいますが、それをはねのけるほどの余裕が自分になかった一年だったので「そうなってしまった」そうとしか言いようがなく。ただ、ストリームを通して自分の毒の部分弱い部分ともろに向き合ってた一年。とも言えたかも。

なんか、ユーザーの広まりに反して「使える人を選ぶサービス」に変化してるような、そんな気はしてます。

そんなこんなを経て2016年にはもしかしたらしれっとSNS再開してるかもしれないし、もうこのままフェードアウトしちゃうかもしれないけど、そんなことを感じた一年だったなぁと。良かったのかどうかと言われると「致命傷になる前でよかった」かも知れない。